親の庇護を離れて、初めて経験する社会生活が幼稚園です。入園式の日の、子どもたちの泣き叫ぶ声を聞くと、それがその子にとって、いかに大きな出来事であるかを理解することができます。そんな幼い子どもたちが、次第に幼稚園の生活にもなれ、やがてみ仏さまに手を合わせることができるようになる様子を間近に見ていると、教育の持つ大きな力を感じます。子どもたちが「誓いの言葉(三帰依文)」を覚え、「きーみょうむーりょうじゅにょーらい」と、「おつとめの歌」を一所懸命歌っているのを聞くと、私たち大人が失っていこうとしている大切なことを、子どもたちが取り戻そうとしているように思えて、深い感動をおぼえます。
朝焼あさやけ 小焼こやけだ 大漁たいりょうだ 大羽おおば 鰮いわしの大漁だ 濱はまは祭の やようだけど
海の中では何なん萬まんの 鰮いわしのとむら ひいするだらろう(注1)
これは、金子みすゞの「大漁」という詩です。はじめの3節は、大漁に沸く浜辺のお祭り騒ぎの描写であり、それは“人間の眼差し”が捉えた情景です。
しかしみすゞは、あとの2節で静かに、小さきもの弱きものたちの悲しみを見つめます。それは彼女が幼いころに身につけた“仏さまの眼差(まなざ)し”によって受け止めた世界に違いありません。
幼い子どもたちが人生を生き抜いていくためには“人間の眼差し”が必要でしょう。社会は子どもたちに、より強い“人間の眼差し”を求めているのかもしれません。しかしその人間の眼差しの根底に“仏さまの眼差し”を持たない者には、本当の意味で豊かな人生は訪れないのではないでしょうか。
今日、心の教育の欠如が指摘され、文部科学省も「幼児期からの心の教育」の必要性を指摘しています。しかし現代においては家庭も社会も学校も、このことに正面から取り組む力を失っていると思わざるを得ません。
京都幼稚園では、日々の保育における始業時のお仏参(礼拝)をはじめ、様々な年間行事を通して、み仏さまに手を合わせ、みんな仏の子であることを知り、すべてのものがみ仏さまのおかげを受けていることに気付いて、いのちや物を大切にする気持ちを養うとともに、相手の立場に立つことや、仲良く助け合うことの大切さを知って、困っている人に親切にし、よろこんで助け合い、お手伝いすることが出来る子どもを育てることをめざしています。
“仏さまの眼差し”に、いつでもどこでも見守られ、照らされ、抱かれ、護られていることを感じ取ることができるようになった子どもたちは、やがて“仏さまの眼差し”で他者を見ていくことの出来る人間として、成長していくことと確信しています。
幼い園児たちは今、京都女子学園の1世紀にわたる教育理念(建学の精神)の具現者のひとりとして、その歴史に参画しようとしているのです。
(注1) 新装版 金子みすゞ全集・I「美しい町」((株)JULA出版局)